川越商工会議所と芸妓衆

長く、深い、協力関係があった
 川越商工会議所と芸妓衆

色あでやかな着物姿の芸者さんは芸妓(げいぎ)とも呼ばれる。三味線を奏で、端唄、小唄、長唄などを唄い、踊って見せるという芸事を売りものにする女性のことをいい、酌婦や遊女ではない。かつて物資の集散基地として栄えた川越市内には、100名近い芸妓衆がいたというが、時代の流れと価値観の変化を背景にして廃転業していったという。

川越の花柳界と芸妓衆の成り立ちについての詳細は定かではない。しかし、川越商工会議所と芸妓衆との関係は、かなり古く深いものがありそうだ。
それは明治33年(1900)2月の川越商工会議所の創立時まで100年以上の時を逆のぼることになる。会議所の当初の事務所は本町(現在の元町一丁目)の「川越米外三品取引所」の中にあった。同地域には芸妓置家が点在していたのである。

川越商工会議所の創立総会後の宴会では、川越芸妓衆の総出による接待と伝統芸の披露があったという。個人的にも旦那衆との交流は深く、花柳界の創業時からの馴染みの関係であった。

そんな関係から、昭和5年(1930)に発表された当時のご当地ソング「川越小唄」をはじめ、同8年(1933)に川越のPRを目的として出来た長唄「四季の川越」などの制作に際して、企画から完成までに関して川越商工会議所の果たした役割は大きいものがあるという。

(川越商工会議所100周年記念誌を参照)              

記事:(や)

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